東京

 ※2019年 8月に書いたものです



現状どんな言葉を持ってもそれを例えることも表現することもできないが、受けたエネルギーをどこかに吐き出さないとそれに食い殺されそうな気がした。

 

東京。東京といえば、そのイメージにあるのは天を突き刺すビル群や、無機質、そして溢れかえる人々、色で言えば白黒。

巨大なビル群が晴れとも曇りともつかない空の中にそびえ立ち、奥のビルは空気に飲み込まれて霞んでいる。

 

この都市にはいつからか、政府によって大きなフェンスが建てられるようになった。人々を見下ろす冷徹なフェンスの上には有刺鉄線があり、鳥も止まれなくなっている。

かつて公園だったその場所の周りには高いフェンスがそびえ立っていて、そこへまだ歩くのもやっとの小さい子供が、よちよちとフェンスに近づいていってその向こうのパンダの遊具を見ようとした。

既にペンキが剥がれ中の無機物がむき出しになったパンダは、大きな瞳でフェンスの向こうを見つめ微笑んでいる。

子供がフェンスに触れようとしたその時、「何してるの!」という母親の金切り声がした。

子供ははっとして手を止めると、その声に驚いたのか泣き出す。

周りを歩いていた人々は電子機器の画面から一斉に顔を上げて子供と母親を見た。

視線はレーザーサイトのように一直線に向けられ、母親は慌てて子供を叱責する。

この都市では全ての学校にフェンスが建てられている。学生は誰もそれを超えて外へ出ようとはしなかった。

会社の周りにはもっと厳重なフェンスがある。社員たちはフェンスに近づこうともしなかった。

都市は冷たい。

ひんやりとした空気が常に街全体を覆い、天気は常に埃のような曇り。既に四季という言葉は形骸化していた。

街の中で笑顔なのは接客用ロボットだけだ。接客用ロボットの貼り付けられた笑顔だけがコピーアンドペーストで無数にはびこっている。

都市における個性や個人とは、所詮個人に割り振られたナンバーにすぎない。

人が生きているということはただのオンライン状態で、死とはオフラインだった。

その日も私は決まった時間に決まった場所に行って決まったことをする予定だった。

決まった道を歩き、赤信号で立ち止まる。

その時突然、物凄い爆音が辺りに響き渡った。凍った都市にヒビが入った感じがした。

サイレンだ。それは地震の警報でもないし、パトカーでも救急車でもない。甲高いサイレンの音は静かだった都市を暴れまわり脳を直接殴りつけてきた。

恐怖でその場に立ち尽くす私の背後から女の悲鳴。

反射的に振り返るとそこには何人かの人が倒れてうずくまっている。

周りでは叫んで逃げ回る人や、血まみれで助けを求める人や、正気を失って泣き噦る人。

うずくまっている人の先に、スーツ姿の男が大きなメガホンを片手に立っていた。男は飛びかかってきた別の男を革靴で思いっきりひと蹴りして地面に叩きつけると、その男の背に片足を乗せ、民衆を見渡してメガホンを構えた。

よく見ると、メガホンの男の背後には滅茶苦茶に壊されたフェンスがあった。

メガホンの男は、この都市始まって以来初めて、フェンスを壊したのだ……。

そして男は、口を開いた。

 

ここまで書いて2000文字弱だが、これが本人がステージに登場した瞬間の私の感想である。

何を言ってるのかわからないと思うがこれはあくまでイメージの話だ。

ここでいう私とは観客である。

あの場は間違いなく凍りついた都市であったし、あの登場は都市へヒビを入れたサイレンだった。

 

 

あの場において観客全員は無力だった。

 

これはアイドルによるライブパフォーマンスの域を超えて一つの表現だった。

アイドルという立場を存分に利用して作り出されるそれは間違いなく自己表現であり、しかし自己満足ではなかった。

 

そんなにこの世が憎いかと問いたくなるほどの反逆的な言葉は既に言葉というより弾丸に近い。

言葉は時にナイフであるし、やさしい川の流れともなるし、ある時には子供のころ大事だった熊のぬいぐるみでもある。

自由に形を変え質量を持つことのできる言葉の、言葉の枠を超えて何になるかは発する人に委ねられる。

あの時あの場で言葉は弾丸であった。

 

言葉は弾丸であり、その口はトリガーを引いて観客を撃ち殺していく。

 

本当に人が怒り狂った時に湧き上がってくるあの強烈なエネルギー。絶対殺してやると思ったら体は暴走をやめないし、体温は上がりきって血は物凄い速さで駆け巡る。

それを常にやっているような感じだった。その姿勢もパフォーマンスの内容も、ひっくるめて鮮やかとしか言いようがない。

 

アイドルという肩書きで持てる武器全てをむき出しにして都市を睨むその存在そのものが白い紙の上に思いっきり撒き散らした血のようなハッキリとした鮮やかさを持ち、2度と消えない色である。

 

その色にはこうなりたいとかこれでいいといった存在への思想がない。

紫になりたい青でもなく、薄まった黄色でもなく、どっちつかずの灰色でもなく、それはハッキリと誰の目にも赤い血のようである。

 

もしも生きることが絵を描くことだとしたら、私達は下書きをして、それをペンでなぞり、色をつけていき、間違えたら消すだろう。

しかしあの場所において提示された「生きること」とは喉元を掻っ切って流れた血を指でとって紙の上に叩きつけることであった。

血で描かれたその絵には間違いなく自分で描くということの本当の意味がある。

 

本当に恐ろしいのはそれにその年齢で気づいていることだった。

気付くという行為には経験の積み重ねや年と共に変わりゆく感性が必要だ。

歳を重ねる最大の利点とは気付けるようになることだと思う。そこにあるものに、人は年を重ねて気付けるようになる。

しかし歳を重ねずしてそれに気付いているのだ。

年齢と感性の両方で得る気付きを、感性の一点のみで年齢さえ補って気付いている。

この点に私は、神は私たちの知り得ない全てを知っていると唱える宗教との関連性を思うが、流石に主観が強すぎるか。

 

こんなアイドルにハマって、私は弾が全弾セットされたロシアンルーレットに一人で参加している気分だ。

 

通常生きていて感じることのない戦いのスリルや漲るエネルギーがアイドルを通して自分に流れ込む感覚。

私の人生なんて怠慢で退屈にすぎないことを目の前で思い知らされる。

人は誰でも主人公というが、私も主人公であるならきっと強烈に面白くないクソゲーの主人公だと思う。

そしてあの場に君臨した主人公は、自分以外の全てをねじ伏せていく間違いなくこの東京という大都市の主人公だった。

 

どう転んでも凡人の私には受け入れるのに時間がかかりすぎるあれを、こうして必死に持ちうる言葉でもって落とし込むのが精一杯だ。

私は今もまだ粉々になった感情はそのままで、無意味になった今まで集めてきたもの全てを道に投げだし、呆然と立ち尽くしている。

とにかくあの場に私は一つの表現としての到達点を見た。